浦和聖書バプテスト教会

8月, 2016年

《来し方に主を見る》

2016-08-28

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)

 主なる神を知るための一つの方法は、自分の人生の来し方を振り返ってみることです。◇と言うのは、創造者であられる神が係わってない人生は一つもないからです。<神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。>(Ⅰテモテ2:4)。神はクリスチャンだけの神ではありません。すべての人の神なのです(マタイ5:45b)。ですから、どんな人の人生にも、神の守りとみちびきがある筈です。多くの人が、不信仰の故に、それを見損なっているだけなのです。神の係わりを否定する者に、神の御わざが見える筈がありません(詩92:5,6)。◇私の人生に、全知全能の神が係わっておられたと考え、改めて自分の来し方を振り返ってみてください。私たちは実に多くの神の御わざを発見するのです。<主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。>とあります。実は、あれもこれも神の御わざなのです。今こうやって生かされていること自体が神の恵みなのです。私たちは今、何のつながりもない時間の断面を生きているのではありません。神の守りとみちびきがあったからこそ今があるのです。神の御手の中で、過去は今につながり、今は行く末につながっていくのです。この神のみちびきを決して断ち切ってはならないのです。◇<何一つ忘れるな。>という戒めを、私たちは単なる記憶の問題に収めておいてはなりません。これは生き方の問題なのです。今という時だけを見ている者は、未来に向かって正しい選択はできないでしょう。来し方に神を見る者が、今のこの時に同じ神を見ることができ、将来に向かって神の御こころに適う選択をすることができるのです。どんな場合でも、神が係わっていない時はない。これが私たちの信仰です。

《祈り-神に知ってもらう》

2016-08-21

何も思い煩わないで、あらゆる場合に・・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 (ピリピ4:6)

 神に知ってもらう。祈りの持つこの神秘的で重要な意味をどれだけの人が心得ているでしょうか。◇まず人間どうしの「知る」とは全く違った意味があることを覚えねばなりません。人間どうしの場合は、その情報が相手方に未知であるから知ってもらい理解してもらうのです。未知だから知らせるのです。しかし神は、すべてのことをご存知であられます(詩篇139:1~6)。神のこの全知性は、私の外的な生活だけでなく、内面の世界にまで及んでいるのです(4)。さらに驚くべきことに、神の知は私たちの存在以前にすでにあったのです(エペソ1:4,5)。一人ひとりの存在は、神の知から出ているのです。◇ならば、何ゆえに神に知っていただく必要があるのでしょう。実はここに、祈りの最も重要な意味があるのです。言えることは、知ってもらう内容に意味があるのではなく、知らせるという行為に意味があるのです。即ち、神に向かって自分の言葉で自分の思いを伝えようとする姿勢と実際の行為、これが祈るということなのです。例えばこんな人を想像してみてください。『神は私の必要をすべて知っておられるから、私はただ信頼して待っていればよい』と祈らずにいる人です。何が欠けているか、最も大切な神との交わりがないのです。◇神との交わりがない信仰生活とは何なのでしょう。たとえ堅い信頼を寄せていても、心かよう交わりがない信仰生活とは!それは、すべての必要を満たしてくれる親もとにありながら、親にひと言も話しかけない子どもに似ているかも知れません。それは何と不自然で冷たい関係でしょうか。祈るという行為を欠いている信仰生活は、神との関係を実によそよそしいものにしてしまっているのです。

《イエスを信頼せよ!》

2016-08-14

イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。 (マルコ4:39)

この個所には、困難な中でイエスを信頼できなかった弟子たちの姿が記されています。彼らが信頼できなかったのは、イエスがどういう方なのかを知らなかったからです(41節)。信頼は相手を知って初めて生まれるものです。では、イエスとはどういう方なのでしょうか?

第一に、主イエスはいつも共にいてくださるお方です。湖に嵐が起こった時、はじめ弟子たちはイエスの存在を忘れていました。しかし、イエスは最初から〈とものほうで、枕をして眠っておられた〉(38節)のです。困難な中においてイエスが弟子たちの側におられたように、私たちとも共にいてくださるのです(マタイ28:20)。

第二に、主イエスは祈りに答えてくださるお方です。弟子たちは眠っていたイエスに気がつくと、彼を起こし〈何とも思われないのですか。〉(38節)、別の個所では〈主よ。助けてください。〉(マタイ8:25)と言っています。これは、祈りの姿そのものです。こうした真剣な祈りに、〈イエスは起き上がって〉(v39)くださいました。祈り求めるならば、必ずイエスは答えてくださるのです(マタイ21:20)。

第三に、主イエスは全能の神なるお方です。イエスは〈湖に「黙れ、静まれ。」〉(39節)と命じました。すると、どうでしょうか?〈風がやみ、大なぎになった。〉(39節)のです。イエスには、こういった全能の力があります。それは、彼が万物を造られた神だからなのです(コロサイ1:15-17)。

このような偉大なお方を私たちは信じているのです。困難な時こそ主イエスを信頼いたしましょう。     (文:実成)

《人間の価値を何処に置くか》

2016-08-07

 殺してはならない。(出エジプト記20:13)

 またもや恐ろしい事件が起こってしまいました。私が考えさせられたのは、この人がヒトラーの思想にかぶれていたという点です。◇ヒトラーといえば、ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)で知られていますが、彼は初めからこれをやったのではありません。国の経済を建て直すために、初めは働けなくなった老人や病人、障害者等、マイナス生産の人々を対象にしたのです。その結果、貧しい人々にも住む家と仕事があてがわれ、国の経済は見違えるほどよくなりました。当然人々は、国を窮状から救ってくれる人物として彼を大歓迎しました。これがほどなくしてユダヤ人虐殺につながっていったのです。人間の価値を生産性という尺度だけで測るなら、こういった「狂った思想」が生まれてくるという歴史的で忘れてはならないしるしです。◇しかし、それにもかかわらず、この見方は私たちの社会のあらゆる所で行われています。企業は、仕事の出来ない人に給料を払って慈善をしてる訳にはいきません。利潤追求を目的にするなら、仕事の出来る人を雇うのは当然です。学校だって、教えることの出来ない先生には辞めてもらうより仕方ありません。私たちのこの社会は、役に立つ人に価値を認めるという見方で動いているのです。そしてこれは、今に始まった見方ではありません。啼かないホトトギスは殺してしまえと命じる武将がいたといわれていますし、「姨捨山伝説」などの思想もこの類と考えてよいでしょう。◇高齢化が進むにつれて、今後ますますマイナス利潤の人々が増えていくでしょう。これは社会問題であるのは勿論ですが、教会もそれ相応の対策が迫られるのです。教会が役に立つ人だけに目を留めているようではいけません。教会こそ、この社会では死んだとされる人が、かえって生かされる場であらねばなりません。Ⅰコリント12:21~24.


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