浦和聖書バプテスト教会

9月, 2016年

《裁きの中で神を知る》

2016-09-25

わたしは…おまえの汚れを全く取り除き、諸国の民が見ている前でおまえにゆずりの地を与える。…おまえは、わたしが主であることを知ろう。 (エゼキエル22:15-16)

このみことばは、ユダの民に語られた神の預言です。エゼキエルはバビロン捕囚という神の裁きを伝えました。裁きという苦しみの中で主を知るとは、一体どういう事なのでしょうか?

神が怒っておられた事は1節~12節で分かります。①偶像礼拝(3~4節)②暴力(6節)③安息日を汚す(8節)④不品行(10節~11)⑤わいろ(12節)こういった罪を当たり前に犯していました。ここに、罪を罪とも思わない人々の姿を見出すのです。神は13節〈見よ。…わたしは手を打ち鳴らす。〉と怒りをあらわにします。その怒りが、バビロン捕囚という裁きに至ったのです。それは14節〈おまえの心は耐えられようか。〉と言われるほどの苦しみでした。こうやって罪人は、必ず神の裁きを受けて苦しむのです。

ところがこの苦しみの中で、ユダの人々は「主こそ神である」と知りました。何故なのでしょうか?それは、一言で言うならば神の預言が実現したからです。人は神のみことばを通して初めて罪を悟ります。そして、神との人格的な交わり(祈り)をし、罪を悔い改めるのです。神に背を向けた歩みから、神に心を向けた歩みとなるのです。その時、主イエスの十字架によって、汚れ(罪)は全く取り除かれるのです(ヨハネ1:29)。さらに、神は16節〈諸国の民が見ている前でおまえにゆずりの地を与える。〉と言っています。罪を悔い改めた者に、「天国」というゆずりの地を与えてくださるのです。このようにして、人は主を知るのです。

もし今、神の裁きに中にあると感じるならば、主を知る絶好の機会なのです。この機会を無駄に過ごすのではなく、主こそ神である事を知りましょう。    (文:実成)

《祈りーゆだねること》

2016-09-18

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5)

 以前にもお話したことですが、ここでのマリヤの振舞に、祈りの最も本質的で素晴しい姿が期せずして現われているのです。◇先ずマリヤは、ぶどう酒がなくなったとき、この困った問題をまっすぐにイエスのところに持っていきました(2)。これは祈りのスタートですが、これさえ覚束ないのが私たちの正直な現実ではないでしょうか。責任が重ければ重いほど、かえって祈りを失うということが起こり得るのです。この点で、何気ない彼女の振舞は、祈りの本質を穿っています。祈りは本来、親しみの中で気さくになされるものなのです。それはきわめて日常的な神との対話なのです。◇第二にマリヤが、主イエスに必要を伝えただけで、あとは何もしてないことに注意しなければなりません。イエスに対して何の指示も要求もしてないのです。必要を伝えるだけで、それがどんな方法で、どのように満たされていくかには一切ふれてないのです。私たちはこの彼女の静と黙を、v4の主の一見冷たく感じられることばへの反応としてではなく、v5との関連で捉えねばなりません。彼女は方向転換してるのでもなく、願いが受け入れられなかったと諦めているのでもないのです。◇それどころか、v5には彼女の主イエスに寄せる揺るぎない信頼の姿が現われているではありませんか。「主が何とかしてくださる」この信頼がなければ、この言葉は決して出てきません。かと言って、何もしないのでもありません。「あの方が言われることは何でもする」なのです。水を汲めと言われたら、それが人の合理的判断で理解しがたいことであってもそうするのです。すると、主の恵み深き御わざは、人の分別を越えたところで仕組まれていくのです。祈りは主の主権の下で聞かれているのです。ハレルヤ!

《神の計画、それを知って…》

2016-09-11

神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。   (伝道者の書3:14)

3章1~8節には、人には様々な「時」があると書かれています。多くの人はその中で何も知ることなく生きていますが、この著者は「時」を見て「私は知った」と何かを悟りました。

第一に、神は計画された事を計画された通りに完全に行うお方と悟りました。著者は〈神のなさることはみな永遠に変わらない…。何かをつけくわえることも、それから何かを取り去ることもできない(14節a)〉と言います。すなわち、神には神の計画があって、それがあらゆる時に現実に起こっていると知ったのです。人間の計画であれば変更や取りやめが起こりますが、神の計画にはそれはありません。計画されたことが完全に行わるのです。しかも、それはこの地上の全ての被造物に対して起こっているのです。神はご自身の計画を必ず成し遂げるお方なのです(イザヤ46:10-11)。

第二に、だからこそ、この神を恐れなければならないと悟りました。〈神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(14節b)〉とあります。この世界にはテロ、戦争、殺人、様々な不幸がありますし、私の人生には「何故?」と思うような事が多々あります。こういう時、多くの人が不信仰に陥っています。しかし、この著者は違いました。全ての「時」を見てきた上で(1~8節)、そこから〈神がこのことをされたのだ(14節b)〉と受け止めたのです。これが信仰なのです。こういう人は不思議な事に〈人は神を恐れなければならない。(14節b)〉という結論に至ります。そして、これが知識の初め、信仰の土台となるのです(箴言1:7)。

私たちは今まで多くの神の計画に触れてきましたが、そこから、神を恐れた事があったでしょうか?神を恐れ、信仰の土台を築き上げましょう。           (文:実成)

《祈り-神との対話》

2016-09-04

サムエルは「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。   (Ⅰサムエル記3:10b)

 祈りは神との対話(dialogue)である、とは多くの先人たちが伝えるところです。◇対話ですから、最も大切なことは、相手の言い分に耳を傾けることです。そのためには、私のほうで口を噤まなければなりません。祈りの中で、なかなか主の御声を聞くことが出来ない理由の一つがここにあると言ってよいでしょう。黙すことの大切さを知らないのです。そして、こちらから一方的に<願い事(ピリピ4:6)>を伝えるだけで済ましているのです。これは一方通行の祈りです。
◇この祈りにおける黙すことの大切さを鮮やかに教えてくれるのがヨブの体験でしょう(ヨブ記38:1,2)。友人たちとの噛み合わない議論に言葉を尽くし(3章~26章)、さらに自分の<格言>に言葉を使い果たし(27章~31章)、終に語るべき言葉を失った時に主の語りかけを聞くことが出来ているのです。<知識もなく>一方的に自分の<言い分>だけを語っていたヨブを、主は<摂理を暗くする者>と指摘しています。語るべき言葉を失ってはじめて主の御声を聞くことができたのです。祈りにおいては、自分が語るよりはるかに、静まって主の語りかけに耳を傾けることが重要なのです。◇サムエル記に戻って、エリとサムエルを見比べてみましょう。エリは主の呼びかけに気付きました(10)。恐らく、若い頃に主との語り合いを経験していたからでしょう。(しかし今は、老いと不従順のゆえに祈りを失っていたのです。)一方サムエルは、このような経験は初めてだったのです(7)。だから分からなかったのです。しかし、主との語らいを知った彼は、この後の生涯、絶えず主の語りかけを聞きつつ歩み続けていくのです。「お話ください。しもべは聞いております。」これが祈る姿勢であり、祈る行為なのです。


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