浦和聖書バプテスト教会

10月, 2016年

《自分を神に知ってもらう》

2016-10-30

神よ。私を探り、私の心を知ってください。  (詩篇139:23)

 

単純な疑問が湧いてきます。神がすべてを知っておられるのなら(1~16節)、なぜ〈私の心を知ってください。〉と祈るのでしょうか。◇確かなことは、神が私のことを知らないから、分かってもらうために知らせるのではないということです。神に何かを知らせる必要はまったくないのです(8月21日説教参)。このような聖句は信仰生活の中で体験的に解釈できるようになるのかも知れません。これは「私には自分のことが自分でもよく分からないから、神様、私のことをよく知っていてください。」という祈りなのです。従がって、神に知ってもらうことは、神に自分を委ねること、自分の全存在を神に任せることなのです。◇実際に、自分のことを自分ですべて知っている人はひとりもいません。時々「自分で自分のことが分からない」という切実な声を耳にします。特に大きな失敗を仕出かした後などそうです。主イエスも、他の人の〈ちり〉にはよく気がつくが、自分〈梁〉には気がつかないと指摘しています(マタイ7:1~5)。こういう場合は、他人のことを注意するだけで、自分のことを一向に改善しようとしません。気がつかないのだから当然です。主は、こういう人を〈偽善者よ。〉と呼びかけておられます。◇ですから、詩篇のこの祈りは、実に積極的な意味を含んでいるのです。「知ってください」は「知らせてください」と同じ意味なのです。自分で自分のことが分からないのだから、全知の主に教えてもらう必要があるのです。こういう例は、聖書の中にたくさん出てきます(詩19:12~14)。隠れているとは、自分で気がついていないということです。人は、隠れている自分の罪を知るとき、変えられ成長していくのです。これは人格としての成長です。目に見える技術的な成長とは訳がちがうのです。
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《開拓40年を振り返って》

2016-10-23

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。  (詩編124:8)

私たちの教会は1976年9月、熊谷教会の伝道所としてスタートしました。最初の集会は、牧師夫婦とT姉の3名での木曜夜の祈祷会でした。◇それから約5年後に教会として独立し、ほとんどその直後に現在の原山の地に移ってきました。礼拝出席者10数名だったと記憶しています。移転と同時に、教会の土地と建物を個人名義から教会名義に移すために、ほぼ1年かけて単立の宗教法人を取りました。現在の法人規則はその時に認定を受けたものです。その後の歩みは多くの兄姉が知っておられるように、不思議な導きによって隣接地の拡張、そして約10年前に新会堂建設へとつながり、今日に到っています。開拓から数えて、ちょうど40年目に当たります。◇40年を振り返って言えることは、どんな時にも、主が私たちとともにいてくださったということです。「もしも主が私たちの味方でなかったら。」(1節、2節)と繰り返されていますが、今日の恵みを恵みとして覚えるためにも、私たちも同じように想像してみる必要があるのではないでしょうか。今の恵みを、過去の主の助けの賜物として捉えることができなければ、私たちの将来はないでしょう。私たちは決して、主の祝福を断点で捉えていてはならないのです。◇私たちは、このよき節目に、改めて、私たちの主がどのようなお方かを確認しておかねばなりません。ローマ8:31~34。私たちのためにご自分の御子さえ犠牲にしてくださった方が、その他のすべてを恵んでくださらない筈はありません(32節)。これが私たちの信仰です。また、私たちのために死んでよみがえってくださった主イエスが、私たちのためにとりなしていてくださることを忘れてはなりません(34節)。ここに、私たちの将来と希望があるのです。  アーメン。
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《すべてを包む祈り》

2016-10-16

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。  (マタイ6:9)

 

この祈りを、この後に続くいくつかの祈り項目のひとつと捉えることには賛成できません。この祈りが、すべてのいのりを包含しているからです。◇ネガティブな言い方をすれば、「御国が来ますように」と祈りながら、「御名があがめられますように」の祈りが欠けていることなどはあり得ないのです。三番目からも同じです。そしてこれは、私たちの地上生活で願われるすべての祈りにおいても同様でなければなりません。ですから、決して極端ではなく、この祈りが欠けている祈りは、祈りとは言えないのです。改めて、私たちの祈りの生活を省みる必要があるのではないでしょうか。◇願いが実際的、具体的であればあるほど、この祈りが薄れたり、欠けてしまったりする傾向があるように思います。私たちには、自分に都合の好い解答が欲しいのです。御名があがめられなくても、自分の願いどおりになれば、それでよいのです。人は、祈りにおいて最も自己中心的になると言っても決して過言ではないでしょう。自分を祈りの中心に置いておいたら、いつまで経っても、この祈りは生まれて来ないでしょう。自分を神に明け渡し、自分の人生を神に用いて頂きたいと願うから、この祈りが生まれるのです。◇私たちは、この祈りを身につける必要があります。この祈りは、自分のクリスチャン生活そのものだからです。私たちは、御名があがめられるから、それをするのです。反対に、御名があがめられないから、それをしないのです。この祈りが自分の身となるだけで、私たちの信仰生活はどれだけ聖められ整えられることでしょうか。クリスチャン生活のトラブルは、この祈りが欠けている故に生じている場合が実に多いのです。かえって、この祈りがあるなら、トラブルがトラブルにならないのです。
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《「罪」に対するイエスの対応》

2016-10-09

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」     (ヨハネ8:7)

 

律法学者とパリサイ人はイエスをためそうとして、姦淫の女を連れて来て質問しました。主イエスはこういった彼らの「罪」に対して、見事な2つの対応をしています。

第一に、主イエスは人の「罪」に全く動かされませんでした。彼らの質問は、イエスがどうのように答えても告発できるものでした。もし「石打ちにしなさい」と答えればローマの死刑権の横領と告発でき、また「姦淫の罪を赦しなさい」と答えれば聖書に従っていないと告発できました。どう答えてもイエスには良い結果はないのです。こうした質問に対して、6節〈イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。〉だけでした。ここにイエスの真意が表れています。イエスは彼らの質問を拒絶し、「罪」に一切関わろうとはしなかったのです。そして、イエスは彼らの罪に全く動かされず、最後まで姦淫の女性を罪に定めなかったのです(11節)。

第二に、主イエスは人にその「罪」を悟らせました。彼らがしつこく質問した時、イエスは7節〈「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」〉と言いました。実は、イエスは彼らの罪を見抜いていました。そこで、自分をためそうとする人たちが、その「罪」によって姦淫(罪)をさばこうとしている事を悟らせたのです。その時、9節〈年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き〉ました。何故、イエスはこのように対応できたのでしょうか?それは、〈正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来た〉使命をいつも覚えていたからです(マルコ2:17)。

私たちはこの使命をイエスから委ねられた者です。イエスが人の罪に動かされなかったように、罪には一切関わらず、むしろ罪を悟らせる歩みを目指したいものです。   (文:実成)
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《祈り-イエスの模範》

2016-10-02

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。 (マルコ1:35)

祈りの模範的な姿を主イエスの中に見ることは、あながち間違いではないでしょう。◇先ず主イエスは、祈りの時間を確保しています。この聖句の前後を読むと(32~37)、宣教活動の初めから、主がどんなに忙しい生活を強いられていたかがよく分かります。<夕方になった。日が沈むと>(32)とあります。たいていの人が一日の働きを終えて憩いと休息の時に入るでしょう。しかし、主イエスには、それが許されなかったのです。また、せっかく確保した祈りの時間さえ、すぐに妨げられてしまうような状況だったのです((36,37)。私たちよりはるかに、祈りの時間を確保するのがむずかしかったのではないでしょうか。だから主は、みんながまだ寝ている<朝早くまだ暗いうちに起きて>寂しい所に出て行ったのです。父なる神と語り合うためです。◇また、主イエスは、時だけでなく、祈りの場所も確保しようとされています。なぜ<寂しい所>なのでしょう。言うまでもなく、誰にも邪魔されず、父なる神と一対一で語り合うためです。これは「山上の説教」の中で教えられている『密室の祈り』の実践です(マタイ6:6)。父なる神は<隠れた所におられ><隠れた所で見ておられる>のです。◇<わたしと父とは一つです。>(ヨハネ10:30)と言うことの出来る主イエスでさえ、祈るためにこのような努力と工夫をしていたのです。もし罪多き私たちが何の闘いも努力もしなかったら、生活の流れに呑み込まれて、祈りを失ってしまうのは当然ではないでしょうか。祈りを失ったクリスチャンは、神から遠く離れているのです。私たちのこの時代は、知らず知らずのうちに祈りを失っていく時代です。そして、祈りを失った時代は、神を失う時代へとつながってしまうのです。
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