浦和聖書バプテスト教会

11月, 2016年

《 神 の あ か し 》

2016-11-27

あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。  (Ⅰヨハネ5:7-8)

 

著者ヨハネは、神のあかしとは〈御霊と水と血〉(8節)であり、〈イエス・キリストは水と血によって来られた方〉(6節)と伝えます。つまり、〈水と血〉とはイエスに関することであると分かります。では、それは一体どういうことなのでしょうか?

先ず「水」ですが、それはイエスが伝道の開始する直前に受けられたバプテスマを指していると考えられます。「マタイ3:13-17」にはそれが記されていますが、その時、天から〈「これは、わたしの愛する子…」〉(マタイ3:17)と父なる神の声が聞こえ、御霊が鳩のようにくだってきたと書かれています。実は、ここに、「父」「子」「聖霊(御霊)」という三位一体なる神が啓示されているのです。そして、著者は子なる神イエスが、確かに肉体を持って人となられ、バプテスマを受けられたことを知っているのです。だからこそ、それをあかしだと言うのです。

次に「血」ですが、これは「十字架」を意味しています。今でこそ十字架はお洒落等に使われますが、当時は恐ろしい「死刑」でしかありませんでした。貝殻や刃物がついた鞭で叩かれ、十字架に手足を釘で打ちつけられ、血を流して死ぬのがそれです。イエスもこの死刑を受けて死なれました。神の御子が人となったのならば、何故こんな死を迎える必要があったのでしょうか?そこに、神が人を愛してくださった事実があるのです(ヨハネ3:16)。父なる神は、人が生来持つ罪を決して赦しませんでした。そこで、御子(イエス)をその罪の身代わりとしたのです。このように、十字架は神が人を愛してくださった証拠、神のあかしなのです。

こうした「水と血」のあかしは、イエスの公生涯の最初と最後です。つまり、イエスの生涯にこそ神のあかしが記されていると言えるのです。そして、このあかしを真実だと信じさせてくださるのが御霊なる神なのです。ですから、神のあかしは「御霊と水と血」の三つが一つとなるのです。  (文:実成)

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《キリスト者の誇り》

2016-11-20

    貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。 (ヤコブ1:9)

 

誇りは紙一重で高慢に陥る危険性を持っていますが、さりとて、誇りの持てない人生を歩んでいることも問題です。私たちはクリスチャンですから、キリスト者としての誇りを持っていなければならない、ヤコブはこれを教えているのです。◇先ず〈貧しい境遇にある兄弟〉と〈富んでいる人〉が対比されています。これは富に関するだけでなく、世の中の実相を捉えています。この世の中は、何処においても、高低があり強弱があります。多くの人がこれに翻弄され、自分の人生を見失っているのです。高と強が誇りにつながり、低と弱は自己卑下に陥っているのです。このような世の実相は、今後もずうっと続いていくでしょう。世は罪の支配の中にあるのです。◇しかし、キリスト者の誇りは、このような世の在り様を超越したところにあります。キリストに在ることによって、私たちはすでに神の子、神の民とされているのです。(ローマ8:14~17)。私たちが誇りを持たねばならないのは、まさにこの一点です。この一点において、貧しい者は高くされ、富ある者は低くされているのです。パウロもその書簡の中で、まったく同様のことを説き明かしています(Ⅰコリント1:26~31)。「誇る者は主を誇れ」です。◇私たちが特に注目しなければならないのは「自分が低くされることに誇りを持つ」という心の在り方です。これは、生まれながらの自然の感情に反することです。高くされることを喜ぶのは皆が当たり前、しかしクリスチャンは低くされることを喜ぶのです。なぜなら、この世の高さはやがて朽ちはてていくことを知っているからです。(10b、11節)。反対に、天の御国においては低くされることに価値があることを知っているからです。私たちは改めて、自分の誇りを何処に置いているか、考えてみなければなりません。
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《献げる姿勢》

2016-11-13

この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。・・・この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。   (ルカ 21:3−4)

 

この箇所には、金持ちと貧しいやもめの献金について書かれています。献金には「献げる姿勢」があらわれます。
先ず金持ちですが、彼らが献金箱に「大金」(マルコ12:41)を投げ入れるのをイエスは見ておられました(1節)。皆は「素晴らしい信仰だ」と思ったことでしょう。しかし、主イエスは高額な献金がささげられている姿を見ても、全く心を動かされなかったのです。何故でしょうか。それは、彼らが4節<あり余る中から>ささげていたからです。あり余る人の献金は往々にして「私が献金してあげている」という姿になります。イエスはどんな大金であっても、このような姿勢に目を留めることはなさらないのです。それは、イエスが万物の支配者だからです(コロサイ1:16−17)。
では、イエスが目を留められた姿勢とは、どのようなものだったのでしょうか。貧しいやもめが献金箱にレプタ銅貨2枚(少額)を投げ入れるのを、イエスは見ておられました(2節)。そして、この姿を見てイエスは口を開かれます。3節<わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。>ここに「献げる姿勢」があるのです。万物の支配者にとって金額は関係ありません。人はうわべを見るが主はこころを見られます(Ⅰサムエル16:7)。イエスは、貧しい中で4節<持っていた生活費の全部を投げ入れた>彼女のこころに目を留めました。ここに神に自分自身を献げた人の姿があるのです。
すべてのクリスチャンは、自分の人生や奉仕において、このような姿勢が問われているのです。間違っても金持ちのような姿で、人生や奉仕をささげないように気をつけましょう。   (文:実成)
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《人間の成長とは?》

2016-11-06

そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ1:4)

 

人の成長を、私たちは何処に見たらよいのでしょう。もち論、他人事としてでなく、自分の事としてです。◇先ず一般的に世の中でなされている見方を簡単に確認しておけましょう。分かりやすいところで、子どもの成長から考えられるのは、①肉体的成長と②精神的(知恵)成長です。前者は20才頃ピークを迎えるけれども、後者はずうっと続くと言われています。③加えてよく言われるのは、仕事や学びの面での成長です。これは技術的成長と言ってよいでしょう。私たちの社会では、ほとんどこの三つの点だけで人間の成長が測られています。しかし、それだけでよいのでしょうか。◇忘れてならない視点は、④倫理、道徳面での成長です。聖書はこの点でするどく迫っているような気がします。これを人格的成長と名づけてよいでしょう。クリスチャン流の言い方をすれば、信仰の成長(霊的成長)と言い換えることになります。ヤコブが指摘しているのは、まさにこの視点です。〈試練〉〈忍耐〉〈成長〉と言う三つのことばに注目しなければなりません。明らかに、ひとつのつながりがあります。人は試練の中で、忍耐を働かせて成長するのです。その成長は、神のような完全性を目指す全人格的な成長なのです(マタイ5:48)。◇私たちは気付かねばなりません。この視座が欠けているために、どれだけ多くの人が苦しみを負っているか分かりません。目に見える技術的な面での成長は充分なのに、人格面では相変わらず子どもなのです。否、倫理的、道徳的な面では、子どもの頃よりかえって劣っているかも知れません。生まれながらの罪の心がきよめられなければ、人はいつまで経っても、人としての成長は覚束ないのです。
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