浦和聖書バプテスト教会

12月, 2016年

《 何ゆえ御子は人の世に 》

2016-12-25

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」   (マタイ9:13)

 

数年前に造成された街(60軒余)に、クリスマスのチラシを配りました。実に多くの家でメリークリスマスの飾り付けをしており、中には思わず足を留めてしまうほどかわいいものもありました。しかし、十字架は何処にも見当たらないのです。◇もち論十字架は飾り物にするようなものではありませんが、改めて日本人のお祭り好きを覚えさせられた次第です。初めからそうだったのでしょう。クリスマスは、人間の楽しみだけのものになり下ってしまったのです。しかし、教会に集った私たちは、この時にこそ、神の御子が何ゆえに人の姿を採ってこの世に来られたのか、聖書のメッセージを真摯に受け留めたいものです。◇主ご自身が証しておられるように(12・13節)、御子はキリスト(救い主)となって、私たちを罪から救うために来られたのです。これは聖書のあらゆるところで証言されている最も重要な点(福音)です。ヨハネ3:16~17。愛の神は、罪に苦しむ私たち人間を救うために、ご自分の〈ひとり子〉を私たちに与えてくださったのです。言い換えれば、創造主であられる神は、私たちが罪の中で滅んでいくのを黙って見過ごしにすることは出来なかったのです。これが愛です。◇ローマ4:25では〈主イエスは、私たちの罪のために死に渡され…〉と語られ、同5:8にも同様の事が語られています。さらに8:3には〈肉において罪を処罰された〉とあります。キリストが人となって肉体を採らなかったら、どのようにして罪を裁くことができるでしょう。御子は、初めから、私たちの罪の身代りとなって私たちを救うために肉体を採って来られたのです。私たちは、キリストの十字架にこそメリークリスマスを見なければならないのです。
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《 ヨセフの苦悩 》

2016-12-18

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(マタイ1:21)

 

クリスマスの出来事は、決して易々と担われたのではありません。マリヤは戸惑い(ルカ1:29)、ヨセフは苦しみ悩んでいます。受け入れ難いことだったからです。◇先ず19節。ヨセフがこのような結論に至った過程を想像してみなければなりません。マリヤが伝えたことを、彼はどうしても信じられなかったのです。当然です。事実を事実として認めることは、彼自身には身に覚えがないのですから、マリヤが他の男性と通じたと考えざるを得ないのです。しかし彼には、マリヤがそんな女性でないことも分かっていました。ヨセフは愛しているのに信頼できないという苦悩の末、終にこのように決断したのです。信頼が崩れれば、愛も崩れざるを得ないのです。◇しかし私たちは、このヨセフの苦悩する姿に神を信じ従おうとする者の姿を見なければなりません。今の私たちの世界では、こんな場合には、たちまち愛は憎しみとののしりに変わってしまいます。もしマリヤが〈さらし者〉になってしまったら、彼女は「姦淫の女」というレッテルを貼られ、イエスも「姦淫の子」として追放されねばならなかったでしょう。ヨセフの採った行動は、これを防ぎ、神の救いの計画を見事に担っているのです。神に従う信仰は、決して妄信ではなく、人間の理性を無視したものでもありません。◇解決は、天から、人の理性を超えた直接啓示として与えられました(20~21節)。クリスマスの出来事の中で〈夢〉が用いられている理由がここにあります。理性では受け入れ難いことだからなのです。もしヨセフが理性だけで行動したら、イエスは「姦淫の子」で終始したことでしょう。しかしヨセフは、神の御告げを信じ受け入れたのです(24~25節)。理性を超えて無視してでなく信じたこのヨセフの信仰が、見事に神の救いの計画を進めているのです。
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《 マリヤの応答 》

2016-12-11

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

 

主は婚約中のマリヤに〈みごもって、男の子を産みます。  (31節)〉と伝えました。一見すると非常に身勝手に思えます。ところが、彼女は従っているのです。どうしてなのでしょうか?

第一に、マリヤが神のはしためとして生きていたからです。彼女は〈ほんとうに、私は主のはしためです。〉(38a節)と言っています。この「はしため」とは「女奴隷」と訳せる言葉です。そして、奴隷には必ず主人が必要です。主イエスは〈だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。〉(マタイ6:24)と言いました。信仰者は二人の主人からどちらかを選ばなければならないのです。一つは自分の「宝」を主人とする、宝の奴隷としての生き方です(マタイ6:21)。これは本来、未信者の生き方ですが、これを選んでしまう方が実に多いのです。もう一つは、「神」を主人とする、神の奴隷となる生き方です。マリヤはこれを選んで生活していました。ですから、みことばに従えたのです。

第二に、マリヤが神のみことばを信じ切ったからです。彼女は〈おことばどおりこの身になりますように。〉(38b節)と語っています。この言葉には、彼女が信じきったことがよく表れています。彼女は「処女降誕」という奇跡を、〈神にとっては不可能なことは一つもありません。〉(37節)というみことばによって信じたのです。ここに全能なる神を信じきった人の姿を見るのです。親類のエリサベツはこのマリヤの姿を見て〈信じきった人〉(45節)とその信仰を証しています。マリヤは、みことばを完全に信じきりました。ですから、従うことができたのです。

マリヤは、このような信仰でみことばに受け止めました。ですから、身勝手に思えるようなみことばでも従順な応答ができたのです。私たちはどうでしょうか?クリスマスの時期、もう一度、神のみことばに対する在り方を考えましょう。   (文:実成)
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《 誘惑と人生 》

2016-12-04

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 (ヤコブ1:14)

 

誘惑のない人生など何処にもありません。たとえ山奥でひとりで住んでも、生きている限り、誘惑は絶えず生じてきます。◇誘惑は私たち誰もが持っている欲望と直結しているからです。生きているということは、欲望があるということでもあります。ですから、欲望を完全に絶ち切ることは死ぬことを意味しているのです。聖書は、決して、欲望をなくすために修行をしなさいとは勧めていません。神の秩序と倫理に従って、正しく活かすことを教えているのです。この点を怠っているところに、混乱と罪の生活が生じているのです。欲望そのものが罪なのではなく、欲望を罪と死につなげてしまうことが問題なのです。◇ヤコブは〈欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む〉(15節)と言います。欲→罪→死という連鎖をどこかで絶ち切らねばなりません。一番のぞましいのは、欲がはらまないように生きることです。このために、私たちは神の秩序と倫理を知らねばなりません(17~18節)。欲望を正しく活かすためにです。しかし、それでも罪に陥った時には、罪が熟さないうちに悔い改めて、神の御こころに立ち返ることです。肉体的な意味においても霊的な意味においても、死に至ってしまったら、もう人生はおしまいです。愚かにも、この世界にはそんな人が多いのです。◇12月に入りました。何かと誘惑の多い季節です。しかし、私たちにとっては、最も神の愛と恵みを覚える時節です。改めて、神のひとり子が、私たちを罪と死の誘惑から救い出すためにこの地上に来られたことを覚えねばなりません。この恵みの時節を、欲に引かれておたおたと生きるのではなく、じっくりと神の愛を噛みしめて過ごしたいものです。
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