浦和聖書バプテスト教会

2月, 2017年

《 瞬時なる救い 》

2017-02-26

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ23:43)

 

人は必らず、それぞれの自分の死を迎えます。それは、ひとつとして同じものはないのです。◇ここに三人のひとが自分の死を迎えようとしています。見た目には、三人とも同じ十字架刑で殺されていくようです。しかし、見た目は同じでも、その意味するものは、まさに天と地の違いがあります。一方の死は、人々の贖いをなし遂げ、パラダイスに行くことになりますが、他方の死は自分の罪のさばきを受けハデス(死者の魂が行くところ)に堕ちていくのです。これが主イエスの死と犯罪人たちの死の違いです。私たちは、「見た目の死」と「見えない死」というようなことを考えねばなりません。大切なことは、見えないところに在るのです。◇さらに注目したいのは、犯罪人のひとりの方が、ハデスに行く死からパラダイスに行く死に移っている点です。しかも、瞬時にです。その経緯についてはすでに学びましたので(1月22日)、きょうは生じている事実(43節)に留意したいと思います。大切なことは二つ、彼が自分のありのままを認めていること(41節)と主イエスに目を向けていること(42節)です。信仰という観点から見ると、〈からし種〉(ルカ17:6)にも及ばないものですが、主イエス・キリストはそれを認めてくださったのです。(43節)。◇私たちはこの三人の死を他人事で済ませる訳にはいきません。自分の死と自分の死後のことは、自分の責任で決めなければならないのです。生きている時にです。「他人まかせの死」で死んでいく人があまりにも多いのが現実ではないでしょうか。〈あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」〉この宣言を、まさに〈きょう〉というこの時に、救い主(キリスト)から受けていなければならないのです。ヨハネ3:16~18
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《 はじめての宣教 》

2017-02-19

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「…イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。 (マタイ10:5-6)

 

この時はじめて、弟子たちは宣教の働きに遣わされました。◇先ずこの命令が永続的、普遍的なものでないことを確認しておきましょう。(使徒1:8)。復活した主は、宣教の働きがエルサレムから始まって〈地の果てにまで〉及んでいくことを示しておられます。ここで禁じられたことは、すぐに解かれていくのです。もち論、この御ことはが、普遍的なものであったなら、私たち日本人クリスチャンがいるはずがないのです。ですからこの禁止命令は、この時だけの一時的なものなのです。しかしこれは実に合理的です。はじめての宣教が〈異邦人〉からなされるとは考えられないことです。◇では〈イスラエルの家の失われた羊〉とはどんな人々を指しているのでしょうか。イスラエルの家とは、神の選びの民イスラエルを指していることは誰にも分かります。アブラハムから始まってイスラエルに到るまでの歴史をざっと辿ってみても、神の選びがなければ、誰ひとり信仰を受け継いでいくことはできなかったでしょう。堕ちていった人々を見ると、神の選びとは神の守りであり、支えであったことがよく分かります。◇ですから〈失われた羊〉とは、神の選びの中にありながら信仰を持たず、神の恵みを失っている人々を指していると考えてよいでしょう。それが誰であるか私たちには特定できませんが、私たちの周りにも必ずそういう人がおられることを知っておかねばなりません。私たちは先ずそういう人に遣わされているのです。そういう人々のために責任を負わされているのです。〈人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。〉(ルカ19:10)
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《 苦難を乗り越えた凱旋者(がいせんしゃ) 》

2017-02-12

聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て…。(使徒7:55)

 

信仰をまっとうする為の苦難は誰にでもやってきます。ステパノは、苦難を乗り越えて天へ凱旋して行きました。どうして、こんなにも大きな苦難を乗り越えられたのでしょうか?そこに、彼の信仰が表れています。

先ず彼は、死という苦難の中で主イエスを見ました(55節)。もし、彼がそれをしなかったら、最後まで証を続けることは出来なかったでしょう。死という究極の苦難を感じとるなら誰でも逃げ出すはずです(マルコ14:50)。しかし、イエスを見るならば信仰者の足は後ろに下がらず、イエスとともに一歩前へ踏み出すことができるのです。そうした時、いつの間にかその苦難を乗り越えているのです。どうしてそこまでイエスを信頼するのでしょうか?それは、イエスだけが私の苦しみを知っているからなのです(ヘブル4:15)。

次に、ステパノはどうしてイエスを見ることができたのでしょうか?それは、聖霊に満たされていたからです(55節)。聖霊はステパノを通して、主イエスの全てを証しています。本来、生まれながらの人間にはこれはできません。しかし、聖霊に満たされた信仰者はイエスを見上げて、神の御心に従うことができるのです。そして、この聖霊はきよい信仰生活を通して初めて満たされるものです。なぜなら、肉の欲求は御霊に逆らうからです(ガラテヤ5:16、17)。

ステパノは、使徒たちから選ばれた人です(使徒6:3、5)。ここに、きよい信仰生活を送っていた証拠があるのです。だからこそ、御霊に満たされてイエスを見ることができたのです。きよい者だけが神を見ることができるのです(マタイ5:3)。私たちが、苦難の中で主を見ることができない理由は、もしかしたらそこにあるのかもしれません。(文:実成)
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《 宣教の開始 》

2017-02-05

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。    (マタイ4:17)

 

この聖句を理解するために、〈この時〉に到るまでの直前のつながりのある経緯を辿ってみなければなりません。◇まず最初は、イエスのバプテスマです(3:13~17)。主はその必要がないお方なのに〈すべての正しいことを実行する〉ことを好しとされたのです。見逃してならないのは、この時に聖霊の満たしに預かっている点です。次は4:1~11です。聖霊にささえられて、主はサタンのすべての誘惑に勝利しています。11節は重要です。天の御使いたちが仕えてくれる状態に変わったのです。三番目は4:12~16です。主は、危険なユダヤの地からガリラヤのナザレ(主の故郷)に退かれましたが、そこにも留まらず、ガリラヤ湖畔の町カペナウムに住まわれました。留意したいのは、主の宣教の基地が定まったという点です。◇私たちは、この関連のある三つの経緯には、宣教の働きに必要な三つの要素が明らかにされていることに気づかねばなりません。主は必要なすべてを経験し、必要なすべての要素を自分のものとなさっているのです。宣教の働きは、人間的な思いや人間的な決意で始められるものではありません。たとえ始めたとしても、人間的なものは決して永続しません。始めては閉じ、始めては閉じの繰り返しで終るのです。私たちの内側にある宣教意欲はどうでしょうか。◇この三つのうち一つでも欠けているなら、私たちの宣教はうまくいかないでしょう。たとえば一番目は満たされていても、相変わらずサタンの誘惑に振り回されていたら宣教どころではないのです。三番目の要素でも同じです。自分が今置かれている所が定まらず確信もないなら、ただふらふら迷うばかりです。クリスチャンであるなら、誰でも宣教の働きに用いられたいと願うのではないでしょうか。ならば私はどうすればよいのでしょう。
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