浦和聖書バプテスト教会

3月, 2017年

《 福音の中心 ~最も大切なこと~ 》

2017-03-26

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって…  (Ⅰコリント15:3)

 

この手紙の著者であるパウロは、自分自身が受けた〈最もたいせつなこと〉(3節)として、福音の中心を的確なことばで言いあらわします。二つの点が挙げられています。

第一に、キリストは私たちの罪のために、生から死に移されたという点です。キリストは、クリスマスの夜に処女降誕され、ヨセフの子として大工の職に就き、30歳位から宣教を開始しました。このように、現実に見て触ることのできたイエスが、十字架につけられて死んだのです。実は、それは聖書に預言されていたことなのです(イザヤ53章)。この預言の通り、確実に生から死に移されました。では、どうしてそうする必要があったのでしょうか?それは、〈私たちの罪のため〉(3節)なのです。アダムが罪を犯して以来(創世記3章)、人間には神に反逆している罪があるのです。その罪を贖うために、イエスは十字架に架かって死なれたのです。

第二に、キリストは父なる神の御力によって、三日目によみがえられたという点です。預言には続きがあります。〈彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。〉(イザヤ53:11)。ここには、死という苦しみのあとを見て満足するキリストの姿が描かれています。すなわち、父なる神の御力によってキリストは確実によみがえる計画だったのです。パウロはその点を踏まえて、〈三日目によみがえられた〉(4節)と証するのです。そして、その根拠として500人以上の人に同時に現れた事実を伝えました(6節)。何故、よみがえる必要があったのでしょうか?それは、私たちの罪が赦され、義と認められるためだったのです(ローマ4:25)。

これが福音の中心なのです。そして、著者は〈私も受けた〉と言います。私たちはこの福音を受け取っているでしょうか?受け取った者だけが、救われているのです。(文:実成)
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《 召しを現実化する 》

2017-03-19

こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。   (Ⅰサムエル17:50)

 

イスラエルの王となる油そそぎを受けたダビデが(16:13)、その召しを現実のものにしていくのに、二つのモノが重要な役割を担っています。たいへん興味深いことです。◇一つは立琴です(16:14~23)。王位継承と立琴とにどんな因果関係があるのか、常識的には誰にも分かりません。しかし、そこに神が介入すると、見事なつながりが生まれてくるのです。ダビデは、立琴で王宮の人となったのです(21)。もう一つのモノは、石投げ器です(17章)。実は、サウル王は、ゴリヤテを倒した者をむすめの婿にするという約束をしていたようです(25)。ダビデは何と、〈石投げと一つの石で〉、この約束を自分のものにしていくのです。◇私たちが見逃してならないのは、立琴も石投げ器も、ダビデにとっては、きわめて日常的なモノであったという点です。羊飼いの仕事をしていた彼には、これは決して特別なモノではなく、毎日の生活に欠かせない必需品であり、従って実によく慣れ親しんでいたモノだということです。召しの現実化などというと、たいていの人が大げさに考えてしまいます。しかし、全能の神は、今私が接している最も慣れ親しんでいるモノを用いられるのです。◇しかもおもしろいのは、立琴は余暇に、石投げ器は仕事に関連しています。何を用いて仕事をしているか、何を用いて余暇を過ごしているか、です。神はそれを用いようとしておられるのです。象徴的なことが記されています(17:38~40)。戦いには〈よろいかぶと〉が常識です。しかし、ダビデがそれを着けてみて何と言っているでしょうか。常識に囚われていると身動きできないのです。〈慣れていない〉モノを無理に身に着ける必要はないのです。
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《 つまずきから立ち直るまで 》

2017-03-12

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。   (ルカ22:32)

ペテロは3度「主を知らない」と言って罪を犯し、つまずきました(31節)。けれども、後に見事に立ち直っています。どうしてなのでしょうか?二つの点が教えられます。

第一に、自分の力では誰も立ち直れないという点です。ペテロは、死ぬ覚悟があるとイエスに訴えました(33節)が、その少し前に、彼は「誰が一番偉いか?」と議論をしています(24-26節)。実は、これは肉的なことを求めて、自分の力で信仰生活をしていた証拠です。このような中で、彼はイエスに死ぬ覚悟を告白したのです。こうした信仰の歩みは、必ずつまずきが起こります。そして、一端つまずいたならば、自分の力では決して立ち直ることはできないのです。ペテロもそうでした(ヨハネ21:3)。私たちは、それほど罪に対して弱く力のない者なのです。

第二に、立ち直らせるのは神であるという点です。イエスは言います。〈しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。〉(32節)。このような祈りが、今もあるのです。天に帰られたイエスは、ただ地上を見ておられるだけではありません。私たちの信仰がなくならないように祈り、そして、ご自分から会いに来てくださるのです。(ヨハネ21:4-7)。さらに、イエスの祈りに具体的に働かれたのが聖霊です。聖霊はペテロに罪を示し(62節)、悔い改めに導き、その罪がイエスを通して赦されるという事実を教えたのです(使徒2:37-38)。

ですから、立ち直らせてくださるのは主なる神なのです。それは、私たちに自分の力の限界を教え、神により頼んで歩むように造り変えるためなのです。たとえ遠回りしたとしても、最終的には立ち直らせてくださるお方を求めましょう。
(文:実成)
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《 死後への責務 》

2017-03-05

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。 (ルカ16:23)

 

たとえ話ですから、教理を引き出すことには注意を払わなければなりませんが、これは確かと思われることがいくつかあります。◇先ず第一は、金持ちと貧乏人ラザロが死後に行ったところは(もち論魂)まったく異なる所だという点です。一方は〈ハデス〉と言われていますが、もう一方が恐らくパラダイスと呼ばれるところでしょう。ハデスは苦しみの満ちた場所で、他方は〈アブラハムのふところ〉という表現から推察して、全き憩いの場であること分かります。私たちはまず、死後の世界には、このような明確な違いが出て来ることを覚えなければなりません。安易な楽観主義に騙されてはならないのです。◇第二は、見えるかどうか分かりませんが、二つの世界は完全に分離されていて行き来がまったく不可能な世界だということです。〈はるかかなた〉と言われていますし、たとえの続きに目を向けると(24~26節)〈大きな淵〉で隔てられています。これは行き来ができないということと同時に、もはや変更や遣り直しのきかないこと、最後的な決定を意味します。私たちは、自分の地上人生の答えをここに見なければならないのです。これも自分の責任です。変更や遣り直しは今しかできないのです。◇関連してもう一つ。地上に残された愛する人々に対する責務ももう果たすことが許されないということです(27~31節)。これは最も大きな後悔になるのではないでしょうか。そのうち何とかなる、とあまり容易に考えてはいられないのです。金持ちもラザロも死にました。私にも必らずこの時が来ます。今やる気なら出来ることが、この時が来たら、しようとしてももうできないのです。死後への責務は、生きている時にしか果たせないのです。
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