浦和聖書バプテスト教会

4月, 2017年

「永遠のいのちを得るには」

2017-04-23

「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。・・・ そのうえで、わたしについて来なさい。」
聖句:マタイ19:21 奨励者:川島 実成

ここには、富める青年の姿が描かれています。彼は永遠のいのち得るために、「何をしたらいいのか」と追及していた人です。
彼が追及していたことは、実は誰もがやっていることです。それは一言で言うならば「行い」による救いでした。彼は、聖書を良く学んでいたようです(20節)。また、自分の「行い」に自信を持ってもいました(20節)。けれども、どんなに追及しても永遠のいのちは得られなかったようです。ですから、イエスに質問しに来たのです(16節)。そして、これが真実な人間の姿です。人は幾ら「行い」を追及しても、救いを得ることはできないのです。
ところが、イエスはこの青年へ〈あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。〉(19節)と命じています。そして、彼は〈そのようなことはみな、守っております〉(20節)と自信たっぷりに反論しました。その姿を見て、イエスは彼の心に響く上記のみことばを語ったのです。そして、青年が隣人よりも富を愛している罪の姿を示したのです。自分には守れていない罪があることが示され、彼はすぐにその場を立ち去りました。行いによる救いの限界を知り、自らの罪の姿に挫折したのです。
しかし、実はここにイエスの狙いがあるのです。イエスは青年に「行い」によっては救われない事実を伝えたかったのです(ローマ3:20)。そして〈・・・わたしについて来なさい。〉(21節)とご自分を信じる弟子となるように勧めています。すなわち、永遠のいのちは「行い」によってではなく、イエスへの信仰によって与えられるのです。それは、イエスが人間の罪のために死なれ(十字架)、甦られたことを信じることなのです。神はこの信仰を義と認め、信じる者に永遠のいのちを与えててくださるのです(ガラテヤ2:16)。
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どうやって復活を信じたのか

2017-04-16

「…信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」   

 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」  

聖句:ヨハネ20:27-28 奨励者:川島 実成

 

イースターは主イエスの復活をお祝いする日ですが、一度死んだイエスが復活したことを誰が信じられるでしょうか。しかし、世界中の真のクリスチャンたちは、この信じられないイエスの復活を信じています。では、どうやって復活を信じたのでしょうか?

トマスの姿を見ていく時に、そのことを教えられます。彼は皆が集まっている場に不在で、復活のイエスを見ることが出来ませんでした。その時、彼は他の弟子たちのことばを信じず、<私は、…決して信じません。>(25節)と強い否定をして不信仰に信じませんでした。実は、これが常識的な人の反応です(使徒17:31-33)。現代の私たちと何ら変わらないのです。私たちもイエスの復活の話を聞いて、強く否定し続けていた者なのです。

ではどうして、否定したトマスが復活を信じることができたのでしょうか?それは、主イエスの一方的なあわれみと愛にあります。主イエスは疑い深く陰気なトマスのためだけに、再度主の日に現れてくださっています。それだけでなく、トマスが言った不信仰なことば(25節)に対し、みことばくださいました(27節)。このように、イエスはたったひとりの魂のために、惜しむことなのない労苦をなされる方なのです。どうして、トマスだけにそのような労苦をなさったのでしょうか。それは、神の選びとしか言いようがないのです(エペソ1:4-7)。

こうやってイエスが現れてみことばを語った時、トマスの心はどうなったでしょうか。彼は、イエスに〈「私の主。私の神。」〉(28節)と告白し、不信仰を悔い改めて復活を信じました。私たちクリスチャンは、誰でもトマスと同じようにイエスのあわれみと愛の中で、復活を信じる者となった者なのです。
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《 キリストの受難 ~園における苦闘~ 》

2017-04-09

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:44)

今週は受難週です。ですから、主イエスの御苦しみを心に覚えたいと思います。ゲッセマネの園における主の御苦しみから、二つの点を教えられます。

第一に、イエスの苦しみを助ける者は、誰もいなかったという事実です。彼は弟子たちに祈りの要請をし、共に苦しみを担うことを望まれましたが、弟子たちは誰一人として祈り続けられませんでした(46節)。特別にイエスの近くで祈ることがゆるされたペテロ、ヨハネ、ヤコブでさえ、見事に眠ってしまったのです(マルコ14章32節~)。そして、これが私たち人間の姿なのです。人はイエスの苦しみを本当の意味で理解し、助けることはできないのです。それどころか、いつも自分の事しか考えないのです(ピリピ2:21)。

第二に、イエスはたった一人で苦しまれた(継続)という事実です。本来、師の苦しみを共に担うのが弟子としての正しい姿です。ところが、弟子たちが眠ってしまったため、イエスはたった一人で祈り、苦しまれました。それは〈汗が血のしずくように地に落ちた。〉(44節)ほどです。それほどの苦しみを耐え抜いたのは何故でしょうか。それは、私たち人間の罪のためなのです。そうやって、イエスは、誰の助けも受けず(父なる神の励ましはあったが)、たった一人で苦しまれ、最後はご自分を受け入れなかった人間のために、いのちまでもささげたのです。(ローマ5:8)。

私たちは、この受難の事実を重く受け止めているでしょうか。キリスト者になると、受難の全てを分かった気になります。けれども、それは誤りです。私たちは主の御苦しみを理解できないし、主イエスは一人で苦しまれたのです。だからこそ、キリストへの感謝と賛美が溢れるのです。(文:実成)
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《 これからどうなる? 》

2017-04-02

何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。  (伝道者の書8:7)

 

私たちが生きているこの時代がどんな時代か、二つの言葉で表されると思います。一つは不確実、もう一つは不透明です。◇しかし、唯一、「これは絶対に確実だ」と言えることがあります。それは全員が死ぬということです。これは百パーセントの確率です。一つの例外もありません。私たちは、近未来に執行が決まっている死刑囚として生きているのです(3:19~20)。誰がこのことに気づいて生きているでしょうか。より確実なものを目指して生きている私たちですが、この絶対に確実なことには目を向けようともしないのです。「誤魔化し人生」と言わねばならいでしょう。◇ここに、この絶対確実を悟った人がいます。ソロモンです。彼の告白に目を留めましょう(8:15)。これが、絶対確実な死を捉えた者の生き方なのです。これを虚無的快楽主義と名づけてよいでしょう。死ぬということを悟ったなら、人はこういう生き方しかできないのではないでしょうか。見逃してならないのは、これも〈神が人に与えて〉くださったものだと捉えている点です。同じような告白が2:1~2にも出てきます。快楽は罪、と人生を否定してないのです。また、人生は快楽だとも言ってないのです。◇何をしても、この地上の人生は〈空〉であり、無なしいと伝えているのです。そして、ここから、まさにここから、神に従い、神に仕える人生の意義を見い出しているのです。(12:1、13~14)。虚無から摑んだ意味こそ本物です。この世に〈空〉を認めようとしない者たちとは訳がちがうのです。逆接的な言い方ですが、この地上の空を知ればこそ、この地上の人生の意味も知ることができるのです。どうなるか分からないこの世界、私たちはどう生きねばならないのでしょうか。
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