浦和聖書バプテスト教会

5月, 2017年

信仰義認 ~アブラハムの例から見る~

2017-05-26

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼(アブラハム)の義とみなされたのです。

聖句:ローマ4:21-22 奨励者:川島 実成

信仰義認ということばがあります。これは、信じる者を神が義と認めてくださり罪が赦されるという意味です。では、何を信じればよいのでしょうか?その点をアブラハムの例から教えられます。
信仰の父であるアブラハムは、75歳の時、神の召しを受けて、カナンへ向かいました。ところが、一向に子どもが与えられません。神は星の数ほど子孫を与える(創世記15:5)と約束したのに、妻サラとの間に子どもは与えられなかったのです。しかし、神は何と100歳になった時、イサクが生まれるという約束のみことばを語りました。その時アブラハムは「そんなことが起こるはずない」と笑ったのです(創世記17:17)。これが、常識的な人の判断です。年配になって子どもは生まれないのです。しかし、彼は、この約束を信じました。神には不可能なことはないというみことばを信じたのです(創世記18:15)。こうやって神はアブラハムを義と認めてくださったのです(22節)。
すなわち、信仰とは神の語られた約束(みことば)を素直に信じることなのです。たとえ信じられない、笑ってしまうことであっても、疑わないで信じることが信仰なのです。そして、私たちにとっての神の約束とは、神のことばである聖書です。聖書は、主イエスが私たちの罪のために十字架で死なれ、実際に肉体を持ってよみがえられた事実を伝えています(25節)。さらに、主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる者を義と認めてくださると伝えています(24節)。このような、神の約束を信じた者だけが、罪が赦され、義と認められるのです。それは、救われて天国へ入れることを意味するのです。
ですから、私たちもアブラハムと同じように、神のみことばを真実と信じるならば救われるのです。これが、昔も今も変わらない信仰義認なのです。あなたはもう信じて救われているでしょうか。

「宣教前にイエスがしたこと」

2017-05-14

ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を
宣べて言われた。「時が満ち、・・・」 

聖句:マルコ1:14-15 奨励者:川島 実成

主イエスは宣教を開始する前に、幾つかのことをしました。それは、主と教会に大きく仕える者にとって大変必要なことです。
第一に、イエスは宣教開始するための準備をしました。先ずイエスは、バプテスマを受けられました。彼はこれを<すべての正しいこと>(マタイ3:15)と語っていますが、イエスは神です(10、11節)から、本来必要のないことです。けれども、それを行なって、神に従う姿勢と模範を示されたのです。そうした時、御霊の力を頂いています。次に、<御霊はイエスを荒野に追い>やっています。そして、荒野であらゆる誘惑を受けられました。ここでイエスは、神に仕える生活において不必要なあらゆる欲から勝利されたのです。御霊は私たちを守るだけではありません。時には訓練し、肉の欲に勝利するように導かれるのです(ガラテヤ5:16-18)。この訓練こそ、私たちがきよめられる歩みなのです。
第二に、イエスは神の時を見定めました。すべての欲に勝利された後、すぐに宣教を開始していません。<ヨハネが捕らえられて後>(14節)、イエスは<時が満ち>(15節)と語って、宣教を開始しています。これには深い理由があります。神の時を見定めているのです。ヨハネの使命は、<主の道を用意>する(3節)ことでした。それが終わるまで待っていたのです。若い人にありがちな点ですが、準備が出来たらすぐに行動に移してしまいます。勿論それは素晴らしい点もありますが、主の働きは別です。時が満ちるのを見定めなければ、大きな失敗をしてしまうのです。イエスにとって準備が整ってすぐに宣教を開始することは父なる神の御心ではありませんでした。ですから、待って時を見定めたのです。
準備と時の見定めは、主の働きを担う者にとって大変重要な課題です。今の信仰生活は無駄にあるのではありません。そうやってやるべきことをきちんとした後に、必ず時が満ちるのです。

「弟子たちの献身」

2017-05-14

イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。
聖句:マルコ1:17 奨励者:川島 実成

献身は簡単にはできることではありませんが、この個所で弟子たちはすぐに献身しています。どうして、そうできたのでしょうか?
第一に、弟子たちはイエスをメシヤ(救い主)と確信したからです。ヨハネ福音書1章35節~42節を見てみますと、バプテスマのヨハネがイエスを「神の小羊(36節)」と指示し、それを聞いた二人(後の弟子)はイエスと交わりをしています。その一人であったアンデレは、兄弟ペテロをイエスのもとに連れてきました。こうやって、ペテロはイエスと出会い、イエスが預言されたメシヤ(救い主)だと信じたのです。その上でイエスは、彼らが罪人の一人に過ぎないことを教えました(ルカ5:4-11)。この時、彼らはイエスがメシヤであるとの揺るぎない確信をしたのです。そして、これがなければ誰も献身することできないのです。
第二に、弟子たちはそのメシヤの声(みことば)を聞いたからです。イエスは、確信した彼らに上記のみことばを語ります。これは、「わたしの後に(絶対に)ついて来なさい。」という神の絶対的な命令です。この声を聞いた時、彼らは迷うことなく自らをささげて献身しました。自分が確信してやまないイエスのみことばに、素直に従ったのです。それは、すべてを捨てることを意味します。けれども、彼らは猟師という安定した仕事と家族さえも捨て(18、20節)、人間をとる漁師となることを選んだのです。イエスは言います。〈わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、…憎まない者は、わたしの弟子になることができません。〉(ルカ14:26)。弟子たちは、これをしたのです。
主イエスは、何も能力のある者を必要としているのではないのです。イエスをメシヤと確信し、みことばに応答した、名もない漁師を必要とされたのです。この点を覚えて自らをささげましょう。主は今も働き人を、必要としているのです(マタイ9:37)。

「全てはキリストのため」

2017-05-01

私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。
私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません

聖句:マルコ1:7 奨励者:川島 実成

 

バプテスマのヨハネは聖書の預言の通り現れました。召しを受けた彼の働きと姿勢はどんなものだったのでしょうか?
先ず彼の働きですが、彼は主の道を整える働きをしました(2、3節)。宗教的に堕落した民を回心させるのは並大抵の働きではありません。誰の後ろ盾もありませんし、たったひとりで一から始めなければなりませんでした。こうしたヨハネの労苦は容易に想像ができます。しかも、民を集めるだけではありません。集まって来た民を、整えるのです。そこには、継続という戦いがあります。信仰は一日にして完成しないからです。こういった働きをなすために、彼は〈悔い改めのバプテスマを説いた。〉(4節)のです。「悔い改めなさい。」との普遍的なメッセージを教会が今も語り続けるのは、ヨハネのように、主のために民を整えるためなのです。
次に、どういった姿勢だったかですが、それは7節のみことばによく現れています。ヨハネはこの点をいつも心に覚えていました。ですから、「悔い改めなさい。」というメッセージとともに、キリストが〈あとからおいでになります。〉(7節)と宣べ伝えたのです。彼が民を集め、バプテスマを授けていたのはユダヤ教ヨハネ派を造るためではありません。主のためなのです。実は、教会も同じです。かしらなるキリストのものであって、牧師や教会員たちのものではないのです(エペソ1:22-23)。彼はこの点をよく知っていました。ですから、<私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。>(7節)と謙遜になれたのです。
世代交代にはこういったヨハネの姿勢が最も必要です。全てはキリストのためなのです。奉仕や教会での自分の立場に執着するのではなく、自分の働きを終えたらキリストに返し、次の人に渡していく、これが大切な姿勢なのです。それが、謙遜な主の僕なのではないでしょうか。


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