浦和聖書バプテスト教会

7月, 2017年

「イエスだけの特別な力」

2017-07-16

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。・・・

聖句:マルコ2:10-11 奨励者:川島 実成

イエスと人々との対話には、イエスだけに与えられている特別な力が良く表れています。二つの点が挙げられます。
 第一に、イエスは人の心を見抜かれるという点です。人間は本来人の心を見ることはできません。だからこそ、罪を赦したイエスのことばに対して〈神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。〉(7節)と律法学者たちは心の中で反発したのです。ところが、イエスはこれをご自分の霊で見抜いたのです(8節)。人はうわべしか見れませんが、イエスは人の心を見られるのです(Ⅰサムエル6:7)。これは何も未信者だけではありません。イエスは、クリスチャンの心の中も見ておられます。主を信頼しているのか?そうでないのか?私の心の中を、特別な力を持って見ておられるのです。ですから、私たちは信仰生活を考えさせられるのです。
 第二に、イエスは神の権威を持っているという点です。病をいやすのと罪を赦すのは「どちらが簡単ですか?」とイエスは質問しました(9節)。律法学者たちはイエスを人と考えていたので、「罪が赦されました。」と言う方が口先だけで、簡単に見えたでしょう。しかし、現実はその逆です。病のいやしは旧約の預言者たちも行ってきました。けれども、罪を赦す権威は、歴史上だれも持っていませんでした。そんな権威を持っているお方は、神だけです(7節)。けれども、イエスにはそれがあるのです。それは、イエスが罪人を救うために来られた神そのものだからです(Ⅰテモテ1:1、15)。この権威を示す為に、いやしは行われました(10節)。私たちはこのような神の権威を持たれているお方を信じているのです。ですから、すべてを委ねてよいのです。
 私たちは主イエスをどのようなお方と信じて信仰生活を送っているでしょうか?主は、私の信仰を見ています。そして、信頼するならば、神の権威を用いて、必ず平安を与えてくださるのです。

「一体となった信仰への祝福」

2017-07-09

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

聖句:マルコ2:5 奨励者:川島 実成

中風のいやしは、イエスが友人たちの信仰に答えてくださった、大変興味深いものです。ここから2つの点が教えられます。
第一に、愛兄姉が一体となった信仰があるという点です。〈イエスは彼らの信仰を見て〉(5節)ことを行ないました。これは中風の人よりも、4人の信仰を指しています。確かに信仰の始まりは個人です。誰かと一緒に信仰を持った人はいません。けれども、個人で信じて終わりではないのです。この4人は友のために、屋根をはがして床をつり降ろしました(4節)。それはイエスに近づくためです(4節)。ここに、彼らの信仰があるのです。信仰は個人的なものですが、兄姉(教会)が一体となった信仰があるのです。けれども、今日の教会はこのような信仰が薄れてきているのです。
第二に、イエスはその信仰に大きく答えられたと言う点です。本来4人の願いは、友のいやしでした。ところがイエスは、〈子よ。あなたの罪は赦されました。〉(5節)と言われたのです。イエスは、一時的ないやしではなく、永遠の課題である罪の赦しを与えています。彼らの一体となった信仰が、自分の願っていた以上のものを生んだのです。これが一体となった信仰への祝福です。個人の信仰には必ず限界があります。私たちは弱く、不信仰に陥る時があるからです。けれども、一体となった信仰には限界がありません。私が弱っても、兄姉が私をイエスのもとに近づけてくれるからです。そしてこの信仰こそ、私たちが目指すべきものなのです。何故なら、主はこの信仰に大きく答えてくださるからです。
私たちの信仰は、個人的なものになっていないでしょうか?教会が一体となって主イエスを信頼しているでしょうか?もう一度、自分の信仰生活を考えてみる必要があるのです。主は一体となった兄姉(教会)の信仰に豊かに答えて祝福なさるのです。

「本物の証」

2017-07-02

ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。

聖句:マルコ1:45 奨励者:川島 実成

病人はいやされた奇跡を人々に証しましたが、それによりイエスは宣教ができませんでした。この事から二つの点が教えられます。
第一に、証にはイエスを締めしてしまう危険性があるという点です。病がいやされた時、イエスは〈「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」〉(44節)と命じました。ところが、病人は〈この出来事をふれ回り、言い広め始めた〉(45節)のです。彼はみことばに背いて、奇跡を人々に証したのです。彼はいやされた喜びのあまり、みことばよりも奇跡を優先しました。そうした時、イエスは締め出され〈町はずれの寂しい所〉に追いやられたのです。この間違いを、実に多くのキリスト教会が行っています。奇跡的な体験が強調され、それが証のように捉えられています。しかしイエスを締め出す証は、どんなものでも本物ではないのです。
第二に、証とはイエスが中心におられ、みことばの通りに神に感謝することです。イエスは〈人々へのあかしのために、モーセが命じた物を持って、あなたのきよめの供え物をしなさい。〉と言われ、神に感謝をするように命じたのです。これが、人々への証となるのです。ですから、例えいやしという奇跡であっても、それが前面に出てイエスを町の外においやる証は、宣教の妨害でしかないのです。ではどうしたら良いのでしょうか?イエスは〈全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。〉(マルコ16:15)と言われます。このみことばの通りに、罪の滅びから救ってくださった神に感謝し、この良き知らせを伝えるのが本物の証なのです。こうした時、イエスは証の中心に来られるのです。
私たちの証はどうでしょうか?本物の証は、イエスを外に締め出すことはありません。イエスが中心におられ宣教につながるのです。神への感謝がにじみ出た本物の証をいたしましょう。


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:173   昨日:125
  • Total:183785   Online User: 1